絵図ベストセレクション
ここに絵図展やワークショップで利用する機会の多い、池田家文庫を代表する絵図を集めました。
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備前国図 T1-5 慶長年間(1596-1615)
現在知られる最も古い備前国の絵図。絵画的な古い画風で描かれており、慶長時代の絵図に間違いはないが、江戸幕府が作成を命じた慶長の国絵図との関係は不明である。岡山城下町は、天守閣や堀など総じて川西の景観は正確だが、川東は立派すぎて現実離れしている。下津井城・金川城・八塔寺などの絵画的表現も目を引く。
備前国九郡絵図 T1-14 寛永年間(1624-1644)
「寛永古図」として伝えられるもので、備中国絵図[T1-30]とともに寛永15(1638)
頃に作られたものと考えられている。村形を郡別に色分けするだけでなく、郡の地の部分も色分けされているため、きわめてカラフルに見える。こうした様式は、慶長期の備前国図[T1-5]を受け継ぐものであるが、他にはあまり例を見ない。
備前国絵図 T1-20-1 元禄13年(1700)
岡山藩が提出した元禄国絵図の控図。松平伊予守は岡山藩主の池田綱政。
本絵図は石島山国境争論の決着をうけて元禄16
年(1703)に再提出されたものだが、日付は最初に絵図を提出した時のままになっている。
備中国新御絵図写 T1-21 元禄14年(1701)
備中国の絵図。元は松山藩安藤氏で足守藩木下氏が補助した。目録にある安藤長門守は安藤信友、木下肥後守は木下キン定である。岡山藩が作成した写図で、備前国の控図よりは簡略な仕様である。
備中国絵図 T1-30 寛永年間(1624-1644)
「寛永古図」として伝えられるもので、余白部分に領主名と知行高が書かれており、その領主名から寛永15年(1638)
頃に作成されたと考えられている。様式は、備前国九郡絵図[T1-14]と同じ。村は郡別に色分けされた小判型で示され、村名・村高・領主名が記されている。
〔作州津山城図〕 T3-1 年代未詳
津山城請取に際して作られた絵図。裏面の端に朱書きで「ロ三」とある。津山城下町図(T3-14)の絵図とセット。上使(幕府の担当者)田村右京大夫忠顕、城請取役の明石藩松平若狭守直明・小浜藩酒井靱負忠園、在番役の広島藩松平安芸守綱長の家臣である浅野伊織・沖権大夫の丁場(担当番所)が線や印で示されている。津山藩家臣の屋敷が目付・代官・役人の宿所に当てられ、それぞれに名前を書いた付紙が貼られている。
播州赤穂城図 T3-5 年代未詳
元禄14年(1701)の赤穂城請取の様子を描いた絵図。岡山藩領である八木山三石からの道筋を含め、岡山藩から派遣された者がもたらした情報が、朱書きで付紙に書かれている。朱筋は城請取役の龍野藩脇坂氏の軍勢の進路を示し、城下での詰番(警備)の箇所は朱の三角印で書かれている。城郭部分の図像が軍学図風なのもおもしろい。
〔備後福山御城請取絵図〕 T3-7 元禄11年 (1698)
水野家の断絶にともなう城請取に際して作られた絵図。このときの上使は青山播磨守幸督、城請取は松平駿河守定陳・浅野土佐守長澄、在番は京極縫殿高或であった。その通行路や丁場が細かく記されている。備後福山書(C8-213)に含まれている絵図を写したもので、貼紙などは本図より少ない。
〔備中国松山城本丸立絵図〕 T3-50-1 年代未詳
臥牛山山頂の備中国松山城本丸の様子を立体的に描いた俯瞰図。
松山城下之図 T3-50-2 年代未詳
松山城下町の様子を描いた図。家中屋敷・寺地・町屋が色分けして示されている。
因州御城図 T3-59 年代未詳
江戸時代後期の鳥取城下を描いた略図。袋川の南に、重臣の下屋敷(別邸)や預かり屋敷などが広がっている。大日谷の東照宮が立派に描かれている。
岡山城天守閣北面実測古図 T3-67 年代未詳
岡山城天守閣東面実測古図 T3-68 年代未詳
T3-67
T3-68は岡山城天守閣を北面と東面とから描いた一対の指図。何の目的で作られたかは定かでないが、同じような様式の指図から、18世紀後半の棟梁鳥羽治郎右衛門の手になるものかと思われる。3重6層の構造を持ち、不等辺5角形天守台に立てられているため、四方からの外観は均一でなく、変化に富んでいる。梁・桁・柱をはじめ唐破風なども細かく描かれている。柱の太さの書き込みからすれば、1尺がほぼ1寸で描かれており、縮尺は1/10ほどか。
備前国岡山城絵図 T3-84 年代未詳
江戸幕府によって作成を命じられた国絵図とともに提出された城下絵図。丸の内の櫓の配置や敷地の広さなども克明に描かれている。城下町内の武家地・町人地・寺地の区別、町方の町名なども書き込まれている。「松平新太郎」は、当時の岡山藩主池田光政のこと。
安芸広島城図 T3-271 年代未詳
「斉輝君御分山陽道城々図」と表書きした袋入りのうち1枚。裏面端に「安芸広島城図」「顕」とある。筆写者として「淵本一信」以下8名が記されている。家臣の屋敷名や寺地はそれなりに記入されているが、町屋については色分けが不完全である。広島藩の資料に基づくものと思われるが、筆写の事情は不明である。地図の方位は上が西である。
下出石町惣絵図 T6-2 元治元年 (1864)
町内の砂場屋治郎吉が描いた下出石町の略図。当時の町人町の様子を知ることができる絵図である。道路に 面し、間口が狭く、奥行きの深い、町屋特有の屋敷割りがよく分かる。旭川に面しており、木屋(材木商)や大工が多いのがこの町の特徴である。
〔岡山古図〕 T6-5 〔寛永9年〕 (1632)
現存する最も古い岡山城下図。池田忠雄時代に家臣の屋敷割りのために作られた絵図が、寛永9年(1632)
に池田光政が鳥取から岡山に転封になった際に引き渡された。光政は、この絵図に自らの家臣名を貼って屋敷割りに利用した。それがこの絵図である。外堀の西側にはすでに侍屋敷や寺院が建ち並んでいるが、川東はまだ開発が進んでいない。町人地は黄色で塗られ、区別されている。
備前岡山地理家宅一枚図 T6-32 文久元年 (1861)
幕末期の岡山城下町の屋敷割図。表紙付き。川下図2枚・畝帳1冊とともに桐箱に収められている。川下図(T6-33・T6-34)には旭川の河口部までが描かれ、城下町図に接合するように作られている。
〔御後園絵図〕 T7-123 文久3年 (1863)
幕末期の後楽園の様子を示す絵図。元禄期の築庭以来たびたび手が加えられたが、この図では、中央の芝生、沢の池や唯心山、その南の井田や茶畑などが確認でき、現在の状況にかなり近づいていることが分かる。植生も色彩鮮やかに描き分けられている。園内には園の維持管理に当たる家臣や小者などが住み込んでいたから、そのための建物が多く建ち並んでいる。
御後園絵図 T7-124 明和8年 (1771)
明和8年(1771)11月改めの絵図で、三歩一間(200分の1)の縮尺で描かれている。池の南側の田畑を芝生に変えるなど、藩主(池田治政)の指示によ
って改造された様子が図中に示され、それが付紙に一覧されている。紅葉が鮮やかに描かれ、景観は秋景である。
新刊輿地全図 T10-12 文久元年 (1861)
佐藤政養が作成した木版大判の方形世界図。表紙および箱の外題は「官許新刊輿地全図」。政養は出羽国庄内藩士。勝海舟に師事して、後に幕府海軍操練所の蘭書翻訳方を務めた。その公務としてオランダ製の地図を翻訳して作成したのがこの地図で、世界の海域や航路に関する情報が所狭しと書き込まれている。上部題額のなかに日の丸を「大日本国旗」として掲げ、図面の周囲に世界各国の国旗をめぐらす。下部の欄外には、世界諸州の面積や人口をはじめ、さまざまな地理学上の情報が書き上げられている。
蝦夷闔境輿地全図 T10-26 嘉永7年 (1854)
藤田良(惇斎)が作成した木版多色刷り大版の北辺図。ペリーの来航を受けて、民間での蝦夷地への関心に応えて作成されたもの。19
世紀初頭に幕府が作成した蝦夷地実測図をもとにしているが、山々を絵画的に描くなど鑑賞と実用を兼ねた絵図であった。経緯線を方眼に引くが、あまり正確なものではない。
朝鮮地図 T10-33 年代未詳
対馬藩が作成した「朝鮮国八道図」を写したもの。包紙上書に「対陽官蔵写 朝鮮地図」とある。池田家文庫には同種のものが二枚ある。朝鮮国の各道は色分けされ、主要な道路が朱線で示されている。主な都市にはソウルからの日程が記される。朝鮮で同時代に作られた朝鮮図には対馬島を描くのが一般的だが、この絵図には対馬は描かれておらず、代わりに釜山に「対館」(倭館、対馬藩の外交事務所)が描かれている。
島原戦地之図 T12-39 年代未詳
島原半島全体と周辺地域を描いた図。端裏に「島原戦地之図」「故大御納戸」の貼紙がある。余白部分に「上様へ上り候絵図のうつし」と書かれた貼紙があり、光政が派遣した使者がもたらした絵図だと分かる。「有馬南の古城」とあるのが原城。「天草之内 大やな」(大矢野島)には「寺沢殿領分、貴理志端共此所より起初ル」と書かれている。
肥前島原戦地之図 T12-40 年代未詳
原城攻撃の様子を描いた図。端裏に「肥前島原戦地之図」「故大御納戸」の貼紙がある。築山・せいろう(井郎)・作・金靴乳など、城攻めの工作が細かく描かれている。朱の線は、最終的な城への突入ルートを示しているのだろう。沖に浮かぶ黒く塗られた船は、オランダ船か。付紙などはないが、光政が派遣した使者の報告に基づく図だと考えられる。