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検索結果 20704 件

著者 片桐 真澄|
発行日 2003
出版物タイトル 文化共生学研究
1巻
1号
資料タイプ 紀要論文
JaLCDOI 10.18926/1711
著者 戸前 壽夫|
発行日 2004
出版物タイトル 北東アジア経済研究
1巻
1号
資料タイプ 紀要論文
JaLCDOI 10.18926/1708
JaLCDOI 10.18926/bgeou/1707
フルテキストURL 050_01_0317_0326.pdf
著者 稲田 利徳|
抄録 本誌四二号では韻文指導法の序説として、国語教室や現代社会における韻文の享受状況と問題点、韻文と散文の本質的な相違点、韻文教材を指導する目的と意義などを概説し、さらに四五号では、近代詩の指導法として、「現代国語」の採録詩の傾向と問題点をおさえ、詩の指導法やその留意点に触れてきた。本稿ではこのⅠⅡを受継して、近代短歌の指導の一端を述べてみたいが、短歌そのものの享受状況などに関しては、すでにⅠの序説に述べたので、ここでは省略し、主として教科書の採録歌の傾向と問題点および短歌の特質に即応した指導法や諸々の工夫などに関して縷述してゆく方針である。
出版物タイトル 岡山大学教育学部研究集録
発行日 1979
50巻
1号
開始ページ 317
終了ページ 326
ISSN 0471-4008
言語 日本語
論文のバージョン publisher
NAID 120002306109
JaLCDOI 10.18926/bgeou/1703
フルテキストURL 050_01_0304_0316.pdf
著者 森 熊男|
出版物タイトル 岡山大学教育学部研究集録
発行日 1979
50巻
1号
開始ページ 304
終了ページ 316
ISSN 0471-4008
言語 日本語
論文のバージョン publisher
NAID 120002306004
JaLCDOI 10.18926/1700
フルテキストURL 1_0081_0091.pdf
著者 栗林 裕|
抄録 本論では異文化が接触する際に、言語と言語の接触により生じる言語構造の変容についてバルカン半島および周辺地域の言語現象をみながら、その基本現象の概観と方法論上の問題点および新たに確認された現象の報告を行い、文化共生学に対する言語学からの提言を行う。
出版物タイトル 文化共生学研究
発行日 2003
1巻
1号
開始ページ 81
終了ページ 92
ISSN 1880-9162
言語 日本語
論文のバージョン publisher
NAID 120002306014
著者 津守 貴之|
発行日 2004
出版物タイトル 北東アジア経済研究
1巻
1号
資料タイプ 紀要論文
JaLCDOI 10.18926/1694
著者 村本 由紀子|
発行日 2003
出版物タイトル 文化共生学研究
1巻
1号
資料タイプ 紀要論文
JaLCDOI 10.18926/1690
JaLCDOI 10.18926/1681
フルテキストURL 1_0063_0072.pdf
著者 田中 共子|
抄録 本稿は学際領域となる文化共生学に対して、心理学の立場からどのような示唆が可能かを、現在の心理学の研究領域を整理しながら考えてみようとするものである。
キーワード 異文化共生 心理学
出版物タイトル 文化共生学研究
発行日 2003
1巻
1号
開始ページ 63
終了ページ 72
ISSN 1880-9162
言語 日本語
論文のバージョン publisher
NAID 120002306122
JaLCDOI 10.18926/bgeou/1663
フルテキストURL 049_0292_0302.pdf
著者 稲田 利徳|
抄録 歌僧正徹に「なぐさめ草」と称する紀行文がある。その跋文に応永二十五年(一四一八)秋七月十八日に成立したと旨を記す。時に正徹三十八歳にあたる。この紀行文は東国旅行を思い立った正徹が、応永二十五年春三月末、都をうかれ出て逢坂の関を越え、近江・美濃から尾張の黒田を経て、さらに清須に滞在し、土地の翁や越の国へ旅する途中の童形らとの談話や「源氏物語」談義などの様子を綴ったもので、同年六月まで記して閉じられている。
出版物タイトル 岡山大学教育学部研究集録
発行日 1978
49巻
1号
開始ページ 292
終了ページ 302
ISSN 0471-4008
言語 日本語
論文のバージョン publisher
NAID 120002306006
著者 小畑 隆資|
発行日 2003
出版物タイトル 文化共生学研究
1巻
1号
資料タイプ 紀要論文
JaLCDOI 10.18926/1659
著者 横尾 昌紀|
発行日 2004
出版物タイトル 北東アジア経済研究
1巻
1号
資料タイプ 紀要論文
JaLCDOI 10.18926/1658
著者 小林 孝行|
発行日 2003
出版物タイトル 文化共生学研究
1巻
1号
資料タイプ 紀要論文
JaLCDOI 10.18926/1652
著者 北村 光二|
発行日 2003
出版物タイトル 文化共生学研究
1巻
1号
資料タイプ 紀要論文
JaLCDOI 10.18926/1641
JaLCDOI 10.18926/bgeou/1632
フルテキストURL 048_0197_0206.pdf
著者 稲田 利徳|
抄録 家集を編纂する目的には、我が歌道の営みを集大成して、後世に残すため、勅撰集などの撰歌資料として提供するため、あるいは、自己の詠歌理念に即した歌風を宣揚するためなど、種々なものがあろう。近年蒲生郡の豪族、蒲生智閑の家集は、約八五〇首を収録し、勅撰集的な部立構成をもつ、よく整理されたものであるが、その詞書を吟味してみると、不審なものが少なからず散見されるなど、奇妙な性格の家集であることが明らかになる。これを後人の作為とみて等閑視するのも見識かもしれないが、なぜ、このような家集を編んだのかという立場からみると、これはこれで考察に値する問題であるし、また、地方武士と文芸のありかたをさぐるためにも意味をもつだろう。こういった目標を念頭にしながら、以下、「蒲生智閑集」(以下「智閑集」と略称)の諸本や成立の問題に思いをいたし、その性格の一端を浮き彫りにしてみたい。
出版物タイトル 岡山大学教育学部研究集録
発行日 1978
48巻
1号
開始ページ 197
終了ページ 206
ISSN 0471-4008
言語 日本語
論文のバージョン publisher
NAID 120002305905
著者 山口 信夫|
発行日 2003
出版物タイトル 文化共生学研究
1巻
1号
資料タイプ 紀要論文
JaLCDOI 10.18926/1623
JaLCDOI 10.18926/bgeou/1613
フルテキストURL 047_0210_0220.pdf
著者 稲田 利徳|
抄録 前編においては、「徒然草」一三九段の「家にありたき木は」の段を中心に、「枕草子」「玉勝間」との比較を通して、兼好の草木嗜好に触れてきた。この後編では「徒然草」の諸段に表われる草木のいくつかをとりあげ、各々の草木が、章段の構想のなかで、どんな意味を与えられているか、試見を述べたい。その際、特に問題となるのは、単に”木や草”などと漠然と表記されたものでなく、具体的な草木の種類を明示したものである。一三九段のほかに「徒然草」では、どんな種類の草木があるのか、少し思い浮かべてゆくと、柑子の木(一一段)、棟の木(四一段)、榎の木(四五段)、くちなし(八七段)、めなもみ草、(九六段)、桂の木(一〇四段)、杉・椎紫・白樫(一三七段)、呉竹・河竹(二〇〇段)などはじめ、他にもいくつかの草木が散見される。が、構想とかかわるもので重要なのは、説話的、物語的な章段のもので、そのうちで、ここでは、柑子の木、棟の木、くちなし、桂の木の四種を検討する。なお、この論の基底には、先に公表した「『徒然草』の虚構性」で示した考えが流れているので、あわせて参照願えば幸甚である。
出版物タイトル 岡山大学教育学部研究集録
発行日 1977
47巻
1号
開始ページ 210
終了ページ 220
ISSN 0471-4008
言語 日本語
論文のバージョン publisher
NAID 120002306002
著者 髙橋 輝和|
発行日 2003
出版物タイトル 文化共生学研究
1巻
1号
資料タイプ 紀要論文
JaLCDOI 10.18926/1605
JaLCDOI 10.18926/bgeou/1592
フルテキストURL 046_0182_0192.pdf
著者 稲田 利徳|
抄録 この論考は大きく二つの問題の考察を企図する。二つの問題は、ある意味において、互に乖離しているので、本来、別個に処理すべき性格のものかもしれない。即ち、一つは「徒然草」三九段の「家にありたき木は」の段を中心に兼好の草木に対する嗜好を吟味することであり、他の一つは、「徒然草」の諸段にあらわれる草木を構想とのかかわりから、筆者の表現意図とからめて論及せんとするものである。前者が兼好の趣味や思想と関連するのに対し、後者は「徒然草」各段の構想や虚構性など-いわば創作態度とかかわりをもってくる点、互に次元を異にするといえる。しかし、二つの問題は、草木を論ずることでは接点をもっていて、互に関連を有する面もあるので、ここに、前編、後編として一括して考察してゆきたい。
出版物タイトル 岡山大学教育学部研究集録
発行日 1977
46巻
1号
開始ページ 182
終了ページ 192
ISSN 0471-4008
言語 日本語
論文のバージョン publisher
NAID 120002306072
JaLCDOI 10.18926/bgeou/1575
フルテキストURL 045_0165_0174.pdf
著者 稲田 利徳|
抄録 本誌四二号には、韻文指導法の序説として、国語教室や現代社会における韻文の享受状況、韻文と散文の相違点、韻文指導の目的と意識など、いわば韻文の本質や享受状況の周囲をさぐってきた。今回はそれを前提に、特に近代詩の指導法を具体的に作品に即して検討してみる。詩を教導することに関して、次のような重要な発言がある。詩を教へることが一體、可能か?きはめて疑問に思はれます。できるだけ教へないことこそ、最良の教へ方だと、逆説を弄したくなります。少くともすぐれた詩作品における言葉やイメエジは多義性にみち、限定しがたいものとして揺れ動いてゐるのであり、それが明確な概念の言葉に置き換へられ解襗されることが可能となつたとき、その作品はすでに死ぬのではないでせうか。教へるといふことはしばしば屍體解剖になりがちです。-何よりも大切なのは、讀むこと、くりかへし自ら讀むこと、書くこととほとんどひとしく讀むといふ營みもまた、創造的なものであつて、讀者の主體的把握・感受においてはじめて、詩は成立するのです。一方、正しいよみ、正しい解襗と称するものを外から教へることによつて、得られるのは、詩の死でしかありません。(那珂太郎氏「ノオト断片」傍点那珂氏)詩の本質を極限的なところに想定して言及しているこの発言は、極論的な匂いもするが、詩を教導することの問題点を鋭くついている。ここで留意すべきことは、詩の言葉・イメージが多義性にみちていること、および、詩はそれ自体として客観的に存在しているのではなく、読者の主体的な読みによって、はじめて体現するという二点である。この二点を究極まで追いつめると、正しい解釈などありえないことになり、そこに詩を教えることの不可能性がみえてくる。詩の鑑賞とは、あくまで全体をまるごと味うことで、客観的に分析することではない。従って、ここで試みんとする指導法とは、鑑賞の「手続き」の指示であり、詩の本能の把握方法を思索するものではないことを、まずもって明らかにいしておきたい。以下、先の発言にも留意しながら、現行教科書の近代詩教材の傾向と問題点、詩の特質に応じた指導法などに触れてみる。
出版物タイトル 岡山大学教育学部研究集録
発行日 1976
45巻
1号
開始ページ 165
終了ページ 174
ISSN 0471-4008
言語 日本語
論文のバージョン publisher
NAID 120002305959