JaLCDOI 10.18926/bgeou/9545
フルテキストURL 095_0301_0310.pdf
著者 稲田 利徳|
抄録 豊臣秀吉は朝鮮征伐をめざし、文禄元年(1592年)三月、十六万の日本の兵力を九軍に編成して朝鮮に渡航させた。いわゆる文禄の役である。当時、二十四歳の青年武将で、龍野城主でもあった木下勝俊(長嘯子)は、同年正月十五日頃に京を出発、播磨に二十日ほど滞在、その後、備後の鞆の浦を訪れ、さらに、厳島に参詣して旧知を尋ね、下関の赤間が関、博多、大宰府を巡回した後、筑紫の歌枕などを眺めながら、四月初旬に肥前名護屋に到着している。この期間の旅程を綴ったのが、ここでとりあげる「九州の道の記」である。
出版物タイトル 岡山大学教育学部研究集録
発行日 1994
95巻
1号
開始ページ 1
終了ページ 10
ISSN 0471-4008
言語 Japanese
論文のバージョン publisher
NAID 110000129606
JaLCDOI 10.18926/bgeou/9534
フルテキストURL 095_0087_0098.pdf
著者 北神 正行|
出版物タイトル 岡山大学教育学部研究集録
発行日 1994
95巻
1号
開始ページ 87
終了ページ 98
ISSN 0471-4008
言語 Japanese
論文のバージョン publisher
NAID 110000129597
JaLCDOI 10.18926/bgeou/9533
フルテキストURL 095_0077_0085.pdf
著者 山中 芳和|
抄録 国学思想において、このような被治者たるものの心構えが、政治論的文脈の中で説かれるようななったのは、前章で指摘したとおり本居宣長においてであった。すなわち、宣長は『古事記伝』において「政」という言葉について次のようにのべている、政は、凡ての君の国を治坐す万の事の中に、神祇を祭賜ふが最重事なる故に、其余の事等をも括て祭事と云 とは、誰も思ふことにて、誠に然ることなれども、猶熟思に、言の本は其ノ由には非で 奉仕事なるべし、そは天下の臣連八十伴緒の天皇の大命を奉はりて、各其職を奉仕る、是天下の政なればなり、さて奉仕るを麻都理と云由は、麻都流を延て麻都呂布とも云ば、即君に服従て、其事を承はり行ふをいふなり 即ち「政」は「奉仕事なるべし」とのべ支配を形成する命令と服従の二つの要素のうち、被治者における服従の側面から政治を基礎づけたのであった。命令と服従あるいは治者と被治者との関係は「身分制的」社会における「上と下」の関係に外ならないのだが、本節ではこの問題に関して宣長学における「世間の風儀」の意義を中心に考察していくことにする。
キーワード 化政期国学 藤井高尚 本居宣長
出版物タイトル 岡山大学教育学部研究集録
発行日 1994
95巻
1号
開始ページ 77
終了ページ 85
ISSN 0471-4008
言語 Japanese
論文のバージョン publisher
NAID 110000129596