本稿の目的の一つは、維新変革期の国学者の一人、鈴木雅之の中に、天皇への求心的な姿勢の実相を探るとともに、それとのかかわりにおいて提示される雅之の学校構想がいかなる機能をもつものであったのかを考察することにある。後述するように、雅之においては天皇への求心的姿勢は「人心一和論」として展開する。それは朝廷=天皇が、民衆統合への確固たる収束点として政治的に明確化されてはじめて可能になることであった。ところで、後期国学全体に目を向けたとき、そこには雅之のごとく政治的統合の核として天皇を位置づける以前に、「神の御心」を媒介項として民衆の心の把握を図り、それを通して一定の秩序を確保するという側面があったことを忘れてはならない。「八雲立つ出雲の神に神習ひ習ふや道の学問なるらむ」「幽世の神の御前を畏みて愧る心を人なわすれぞ」と詠んだ、下総の農民、宮負定雄はそのような国学者の一人であった。神習ふとは人々が神の御心を行動の規制原理として心の内に持つことを意味した。そこで期待されている行動とは「身を慎み、身分に応じて、世の為人の為に、それぞれの功を立て」るということに包括されうるものである。しかも宮負は人々にこのような行動を通して、村落が和合し、上下が和合する状態が現出するものととらえたのである。ここに、宮負が村落問題に対して教育的に対処しようとした姿勢を見ることができよう。本稿はまずはじめに[Ⅰ]において宮負定雄について考察する。宮負の和合論を検討し、そのなかで神の御心がいかなる意義をもつものであったかを明らかにする。次に[Ⅱ]では、鈴木雅之について、尊王論、人身一和論、学校思想の三点から考察する。以上の考察を通して、幕末維新期の国学にみられる教化論の性格が、民衆統合論の視角から明らかになり、学校教育思想がもつ意義も明確になるものとおもう。