Bulletin of Graduate School of Education, Okayama University
Published by Graduate School of Education, Okayama University

<Formerly known as>
岡山大学教育学部研究集録 (1号-137号)

<Availability>
Some items are not available because of decision by its author or publisher.

韻文指導法(II) 近代詩の場合

稲田 利徳 岡山大学
抄録
本誌四二号には、韻文指導法の序説として、国語教室や現代社会における韻文の享受状況、韻文と散文の相違点、韻文指導の目的と意識など、いわば韻文の本質や享受状況の周囲をさぐってきた。今回はそれを前提に、特に近代詩の指導法を具体的に作品に即して検討してみる。詩を教導することに関して、次のような重要な発言がある。詩を教へることが一體、可能か?きはめて疑問に思はれます。できるだけ教へないことこそ、最良の教へ方だと、逆説を弄したくなります。少くともすぐれた詩作品における言葉やイメエジは多義性にみち、限定しがたいものとして揺れ動いてゐるのであり、それが明確な概念の言葉に置き換へられ解襗されることが可能となつたとき、その作品はすでに死ぬのではないでせうか。教へるといふことはしばしば屍體解剖になりがちです。-何よりも大切なのは、讀むこと、くりかへし自ら讀むこと、書くこととほとんどひとしく讀むといふ營みもまた、創造的なものであつて、讀者の主體的把握・感受においてはじめて、詩は成立するのです。一方、正しいよみ、正しい解襗と称するものを外から教へることによつて、得られるのは、詩の死でしかありません。(那珂太郎氏「ノオト断片」傍点那珂氏)詩の本質を極限的なところに想定して言及しているこの発言は、極論的な匂いもするが、詩を教導することの問題点を鋭くついている。ここで留意すべきことは、詩の言葉・イメージが多義性にみちていること、および、詩はそれ自体として客観的に存在しているのではなく、読者の主体的な読みによって、はじめて体現するという二点である。この二点を究極まで追いつめると、正しい解釈などありえないことになり、そこに詩を教えることの不可能性がみえてくる。詩の鑑賞とは、あくまで全体をまるごと味うことで、客観的に分析することではない。従って、ここで試みんとする指導法とは、鑑賞の「手続き」の指示であり、詩の本能の把握方法を思索するものではないことを、まずもって明らかにいしておきたい。以下、先の発言にも留意しながら、現行教科書の近代詩教材の傾向と問題点、詩の特質に応じた指導法などに触れてみる。
ISSN
0471-4008
NCID
AN00032875